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倭について再び考える その3


今まで自論も含めさまざまな説を紹介してきたが、その後も色々な本を読み理
解を深めてきた
考古学的には畿内説以外は考えられないとか、神武東遷神話との整合を考え
ると、北九州にあった邪馬台国が大乱があり、各地に一族が「降臨」し、先に幾
内に入った一族と一旦日向に逃げてから畿内に向かった一族の話が古事記
や日本書紀に書かれているという説等が、納得性の高い説と考える
私は囲碁や将棋が趣味なので、「相手の目線で考える」のが習慣になってお
り、これらもっともな説とは一線を画する説に辿り着いた
「相手」とは時の中国人である
中国は今も昔も中華思想という自分たちを頂上に置いた思考で周囲の民族を
理解しようとする
我々は北荻と呼ばれていた、北の野蛮人という意味である
魏志は後の晋の時代に書かれたらしいが、魏にとっての脅威は何だったのか
という視点で倭人のことを書いている
3国時代の魏にとって呉や蜀が他の国と手を結ぶことは非常にまずいことだっ

だから当時西の方にあったと現在のウズベキスタンあたりの国に金印を授与し
友好国として、蜀と手を結ぶのを阻止しようとした
そしてその当時は「会稽東冶」の東にあると思われていた倭国と友好国となる
ことは西方と同様に重要なことだったのである
だから魏の丞相司馬懿仲達は、卑弥呼が朝見してきたときは大いに喜び西方
の国と同列に扱う証として「国王」の金印を授与したのである
その後司馬氏が魏から王位を禅譲され晋の国となった訳だが、その晋の時代
に書かれたのが魏志東夷伝倭人の条である
ここで作者の気持ちになって考えてみよう
倭の国はどこにあるのか、いやなければならないのか
会稽東冶でないとえらいことになる、作者は死刑だ
しかし、当時の倭人が住んでいたのは朝鮮半島の南から九州当たりである
更にその東にも倭種がいるらしいことは判っていた
そこで九州の北岸あたりまではあまり嘘を言うと、他の人から嘘だと言われか
ねないので比較的正確に書き、それ以降はぼかさざるをえなかったのではな
いか
邪馬台国(ヤマト国)という大勢人の住む国があるらしい
本当は東の方らしいのだが、会稽東冶の東のあたりとした
当然そこへは船でないといけない、また大きな国と言った手前陸路もそこそこ
歩かないとつかないということにした
そうすれば、そこへいって確認しようという輩はいないはずだ
いたとしてもそんな場所に何もないのだから確認しようがない
たとえなかったという人が出てきても、そんなはずはない探し方が悪いと言って
しまえば済む
当時の呉国の東の太平洋の沖では潮の流れが速く、親潮と黒潮の流れをつ
かむのは容易ではなかったはずである
赤壁の戦いでも出てきたように魏は陸戦は得意だが、水上戦は苦手である
水が得意な呉でも太平洋の荒波を航海するのは容易ではなかったはずである
つまり、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は、当時の畿内にあったヤマト
国であるともいえるが、作者にとってはそうだと認めるわけにはいかないので
ある、あくまでも呉の東にある「会稽東冶」の東の国だと嘘を貫くしかない
さもないと、魏志にならないのである、晋建国の祖、司馬懿仲達が金印を渡し
たの国が断じて畿内であってはならない、そんな辺境の呉への影響力の少な
い国であってなならないのである
もちろん朝見してきた国があるのは事実としても、魏志からどこにあって、どの
位の規模の国かを推し量ることは無理があると考えるべきである
5万戸の国のはずはない、ずっと少数の国と考えるべきである
九州の北まではいいと仮定してもそこからは方角も距離も全くあてにはならない
ただ邪馬台国の南にも敵対する国があり、東にも倭種の国があるとする文章
を信用するなら九州北部か中部の小国が妥当ではないかと思う
ちなみに会稽東冶の東とは台湾のやや北、尖閣諸島の辺りである
更に東に進み、九州の南との交点には南大東島がある
断言してもよいが、南大東島は5万人の人は住めない
これが魏志倭人伝の真相と思うがいかが


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