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私論の続き

日本の国家として邪馬台国が魏に使者を送ったが、この事を魏でなく日本では
どのような記録として残したのか
日本には日本書紀と古事記が代表的な歴史書として存在するが、書かれた
のが700年代でありほとんど民話としての扱いで書かれている
つまり、明確に卑弥呼の事が書かれていない
また、天皇家の家系を正当化するというのが目的として見え隠れしており
どこまでが本当の記述か疑わしいとされている
古事記より日本書紀の方が天皇家家系正当化の割合がより低いというので
日本書紀を訳文で読むと、必ずしも天皇家崇拝でなく、むしろ血なまぐさい系統
争いさえ記述されており、まんざら嘘ばかりでもないと思える
魏誌との対応である程度の推測をしてもかまわないのではと思えるのである
また、考古学、民俗学、植物の生態系分布、大陸の歴史的事実等から卑弥呼
のことだけでなく日本の成立に関わるさまざまなことが判ってきた
以下に卑弥呼に関係すると思われる部分を中心に書いてみる

・「倭」とか「倭人」という表現が魏志に出てくるが、前後の文脈から日本で
 なく朝鮮半島南部の人たちを指しているとしか思えない部分がある
 (魏志倭人伝で狗邪韓国を倭国の一番北についたとなっている、以下原文
  韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国
  に到る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る・・・)
 倭とは新羅や百済と境を接していた地方と日本の九州北部から
 出雲、越(新潟地方)一帯の海岸地方に住む人々の総称らしい
 当時朝鮮半島南部には伽耶(かや)国というのがあったらしい
 日本史に登場する任那(みまな)は伽耶の一部を指すというのが今日の
 定説となっている
 倭人というのはこの伽耶と新羅一帯にも住み着いたらしい
・日本国内の人口分布では縄文時代は関東から東北の人口密度が高く、
 関西以西は低い
 これは狩猟民族の生存地帯はナラ林地帯であることが原因と思われる
 これが弥生時代になると九州から関西にかけての人口が大きく増える
 これは米の生育できる地帯が温帯から亜熱帯にかけてであることが原因と
 考えられる
 (最近になって東北地方では古くから米を作っていたらしい事が判ってきた
 が、この米は弥生時代の米と違い東南アジアから伝来した種類らしい、こ
 れを水田でなく陸稲(畑で作る方法)として作っていた)
 米を栽培できる民族が徐々に九州から関西にかけて広がっていった
・また、米が伝わったのは沖縄や朝鮮経由でなく中国から海流に乗って直接
 九州に伝わったとみられる
 海流に乗ってきたのは「呉越同舟」で有名な越人と考えると歴史的につじ
 つまがあうらしい
 なぜなら沖縄や朝鮮半島北部の米の栽培は九州や朝鮮半島南部より遅く
 始まった事が判ったからである
 一説に米は東南アジアが種の発祥であり日本へも東南アジアから伝わっ
 たとする説があるが、米の種類を調査すると、照葉樹林帯で栽培方法が
 確立し、その手法が日本にも伝わってきた事が米のDNA判定で判った
 先の越から伝わったとする説を裏付けるものである
・当時の人口分布推移から考えると、一般的に言われている日本に昔から
 住んでいた縄文人を駆逐しながら弥生人が入り込み縄文人は九州や関西
 地方から北と南へ追いやられたという説は疑問が残る
 そうではなくて、関東や東北に今住んでいる人々が縄文人そのものだと
 いうのが最近の定説である
 追いやられたのではなく、弥生人と血が混じりあいながら、今も住んでいる
 と考えるべきとの事である
 ただ沖縄と北海道は海を隔てており、血の交わりが薄かった
 比較的縄文の血の濃い人々が沖縄と北海道には多いようである
・縄文人が大勢住んでいたのになぜ急に人数が減っていったのか、弥生人に
 よる武力虐殺の他の推論として、弥生人の持つ天然痘やはしかなどの病原
 菌に対する抵抗力のなさが原因ではないかとの説がある
 
・その中で出雲地方は例外的に縄文人が縄文時代の昔から多く住みつき
 いわゆる出雲文化を築いていた
 今でも出雲地方にはずうずう弁が方言として残っている
 出雲だけ離れ小島でずうずう弁が残っているのは、この地方がある意味
 隔離された地方であった事を物語っている
・出雲から南の琵琶湖周辺、大阪、奈良、一帯は出雲人の勢力範囲だったと
 みられる
 そう考えないと神社で崇拝する神の名称が説明がつかない
 大阪、奈良周辺には天皇系の神と出雲系の神の両方を祀る神社がある
 本来国譲りの伝承からも明らかなように敵対する神なのである
・一方九州の縄文人は熊襲等少数ながら存在したが、弥生時代に入り、朝鮮
 から渡来したいわゆる「倭人」が徐々に勢力を拡大していった
・出雲と九州の倭人との勢力争いがあり、結果として出雲が敗退し、九州の倭人
 が関西から九州までの国家の王となった
 それでもまだ関東以北には縄文人の豪族が多数残っており、大和武尊の命
 の東征の物語は内容はともかく実際にあった出来事を基にしていると考えられる
 これら縄文人の豪族による国家に対し、弥生人(=米文化を運んだ倭人)
 が住みつき次第に勢力を強め、更には朝鮮半島に住み着いた倭人が次々に
 中国の新しい文化を持って移住してきて、ついに主客逆転した物語が日本書
 紀なのではないか
 移住してきた側から書くのに、まさか先住民を追い払ったとは書けない
 そういう視点で日本書紀を見ると、天孫降臨といった物語や国譲りの物語が
 「ははあ、さては」と思われるのである
 国譲りをした地方豪族の祟りを恐れて出雲を聖地として、また出雲大社を
 自分たちの神よりもりっぱな御殿として、同時にその場所を「隔離」した
 こんな事を戦前に書いたらそれだけで天皇侮辱罪に問われたのであろう
 また戦後は逆に天皇是認の意見がたたかれるという状態が続き、満足に
 正当な学術的意見を戦わす事など出来ない状態が続いたそうである
 最近では朝鮮半島の文化人が日本の天皇家は朝鮮民族の末裔であると
 いう主張を執拗に繰り返し、それ以外の意見を全て排斥しているそうである
 純粋に学問的な興味で推論を述べる事が出来ない世の中は自由主義社会
 ではない、そういう意味で単に卑弥呼と邪馬台国を調べ始めたら、途中で
 天皇に関する部分だけ、未だに帝国主義を信奉する学者連中にストップを
 かけられ調べられない事態に落ちいってしまったと井沢元彦氏は嘆く
 私は別に天皇家が朝鮮半島から渡ってきた渡来人の末裔であっても日本国家
 そのものの恥でも何でもないと考えている
 もとを正せば人類は全てアフリカで進化した祖先に辿り着くのである
 日本人は東南アジアや朝鮮半島、ロシアのいずれかから来る以外存在しよ
 うが無いのである
 早いか遅いかの違いだけでそれが何だと言うのか
 朝鮮人というのは古来からそういうことを差別の道具に使用し、自分たちの
 優位性を主張したがる文化があるらしい
 自分たちの祖先も同じことで中傷されるもろ刃の剣だということは考えない
 らしい
 そうだとするとその文化から破壊しないと、朝鮮半島における日本への渡来
 の事実は全て捻じ曲げられてしまうということになる
 信じたくないかもしれないが私たち日本人の祖先の何人かはそういういや
 らしい文化を持った人々の末裔なのである、全く恥ずかしい
 だいぶ話がそれてしまったが、とにかく朝鮮半島からの渡来人が、人のいい
 縄文人をうまく説得し、幸いなことに血を流すのを最小限にとどめ侵略に
 成功した
・しかも、その戦いは戦争でなく「国譲り」の形であった
 また、朝鮮半島の倭人は、商業の相手として九州の倭だけでなく、出雲とも
 深くかかわっていたため、この3者の間に戦争でなく国譲りとなった因縁が
 隠されているのではないか
 それが、因幡の白ウサギや大国主の命の物語に隠されていると考える
 聖徳太子の作った17条の憲法の最初が「和を持って尊しとなす」というのは
 そのずっと以前から民族の知恵として「和」が存在したというのが井沢元彦
 氏の意見であるが、その視点で見るとこれらの国譲り伝説が考えやすい

・倭が最初九州にあったとした場合、卑弥呼との関係がどうなるのか
 ここで大胆な推論だが、古事記の中で卑弥呼に相当する人物を考えると
 神功皇后を当てる説が有力だが、そうすると朝鮮出兵の朝鮮側の記録と
 ずれてしまうらしい
 更に大胆な仮説として天照大神が日の巫女、すなわち卑弥呼であったとする
 説がある、ここでいう卑弥呼は一人ではなく巫女の一系というような意味合い
 らしい
 個人的にはこの2つの推論は天皇家の存在を優越にするための案であり、
 事実とは異なると思う
 冒頭述べたように、古事記と無理やりこじつけたり、古墳等の遺跡や資料を
 全てとするような推論でなく、素直に全ての事柄を受け入れた時に最も事実
 らしい推論とは何かを考察するのが私の基本スタンスである
 日本の歴史的書物である古事記には天皇家の事が中心に書いてあるから
 といって卑弥呼が天皇家に関係あるとするのはむしろ極論であろう
 卑弥呼が天皇家ではないと考えた場合、どうのような推論が可能か
 もう一度魏志倭人伝に戻り、行程以外の記事から推測したものが以下である

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