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正しいKJ法とは

スライドによる要約を見ても良く判らないと思う
文章化できないと言われたものを文章化するのであるから、判るわけが
ない・・・では話にならないので、手を変え品を変えいろいろやってみたい
ポイントは何か
KJ法を情報整理の手段として使うなら、あるいは単なるグルーピングの
手段としてなら、難しい事はない、近いと思うカードを集めれば良い
そうではなくて、創造技法として使おうとするにはどうすれば良いかが
問題なのである
創造であるから何らかの新しい発見がなければならない
そうすると今まで自分が当たり前に見てきたことが、新たな別の意味を
もつことに感じ取らねばならない
KJ法自体は手法であり、新たに何かを感じるのはあくまでも自分である
KJ法はそれを行いやすくする手段であるはずだ
つまり、数人でKJ法をやることで、今まで自分の表現で感じていた事象
が、他の人の表現が加わることでより広く、深く、あるいは別の見え方を
するようになる
それを自分の表現にしようとする瞬間に新しい何かがひらめく
これがKJ法による創造の意味合いであるようだ

ご存知のように創造とは既存の2つ以上の物事から新しい物事を生みだす
ことと定義されている
何もない無から生まれる独創ではないのだ
有名な事例ではニュートンのリンゴのように、ニュートンが考え悩んでいた
何かとリンゴが木から落ちたのとが合わさって万有引力という概念が生ま
れたのである

テキストの事例の最後のページをもう一度ご覧いただきたい
ここでは名探偵が真犯人を割り出す事例がのっている
事実の一つ一つの相互の関連は一見見当たらないが、これらの事実を
じっと見ていて突然真犯人が誰か閃くのである

ここにはこれまで述べてこなかったもう一つのポイントがある
つまり、名探偵は真犯人を見つける意思を持っていたことだ
真犯人は人であり、物や事象ではない、この暗黙知が大事なのだ
我々は新しい創造をしたいと願う時にこの事例における真犯人のような
明確な目的を概念として持てるのだろうか、難しいと思う
更なるポイントはこの例では真犯人は既に登場している誰か
であり未知の誰かではないということだ
我々がKJ法を使用する場合、こんなに明確にターゲットが絞れていて
しかも既に見知っている何かであった場合それを創造と呼ぶだろうか
今より一歩深い知見が出てきた程度で満足すべきなのか

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