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責任とは何か

テレビで時々偉い人や有名人が、カメラのフラッシュを浴びながら頭を下げる
のを目にする
不祥事に対しての謝罪ということらしい
責任を取って辞任するという言葉を聞く一方で、もとの状態に戻るまで現職に
とどまり努力する事が責任を取ることだとする人もいる
また殺人犯が死刑判決にならないとお決まりの様に遺族に取材し、死刑にな
るまで許せないというセリフを引き出す
時には地震や台風などの自然災害に対してさえ、政府は何をしていたのかと
いった責任を問うような発言が見られる
常々違和感を感じていたので、辞書で調べてみた
辞書には法的制裁や後始末、辞任といったことが最初にあり、最後に英語で
レスポンスビリティと出ている、つまり英語圏の国では責任とは自由に伴い
発生する概念で、応答するという意味なのである
何をやっても自由だが責任は自分で持て、つまり尻ぬぐいはしろというのが本来
の意味らしい
従って地震の様な自然災害や自分の行動の及ばない範囲まで責任を取る必
要はないのである
日本の辞職するとか謝罪するというのは、江戸時代の切腹や仇討の発想らし
い、法的な作業でなく、関係者の怒りを鎮める目的として使われているのでは
ないか、死んで何になる
謝らせたり、辞任させたり、時には自殺や死刑まで持っていかないと、いやそ
れでも感情が収まらなければまだ責任を取ったと認めない
そんな感じが責任という言葉に感じる
よくよく考えれば、過去の過ちを無かった事に出来るまでこれからの行動で
「責任を取る」ことは不可能である事はすぐに判る
もとどうりにすればよいというが、時間だけは元に戻らない
例えば自転車を壊してしまった場合、自転車だけなら修理するとか新しいのを
弁償するとかすればもとどおりといえるが、自転車に乗れなくて電車に間に合
わなかったことは弁償する事は不可能なのである
その結果電車に乗れなかった人が会社を首になった、そこまでの事は無くても
大事な商談がごわさんになった事はどうやっても弁償出来ない事は明白である
だからそういう弁償出来ない事に責任をとれというのはいう方が無茶なのである
気持ちがおさまらないのは判る、大きな損害をこうむったのも判る
しかしお金をいくら貰っても元には戻らない
仮にお金を貰ってもあいかわらず責任はまだ済んでいないと言われ続けるのは
明白である、それでは加害者側もたまらないだろう
一生くやみ続ければいいんだと被害者の遺族が話しているのを聞いたが、気持
ちは判る、判るがなんとやるせない話だろうと思った
お前には人の気持ちを思いやる情というものは無いのか、自分の気持ちさえ
晴れれば周囲がどんな気持ちになっても構わないのか
被害者にそういう負の感情が湧いてきて、ときにはかわいそうという思いよりも
馬鹿めという思いの方が強くなる事さえある
自分が文句を言える立場になった場合はどこまでも、相手をやりこめる
それでも感情が収まらない、それが当り前だ、だからどこまでも言い続ける
加害者がどんなに落ち込んでも知った事ではない、それに耐えるのは当たり前だ
だってお前は加害者なんだぞ
こんな主義主張を持った人が世の中に蔓延してるように思えてならない
正しい事を主張するべきだと学校では教えるが、それはどこまで正しいのか

工事中で片側交互通行の道を両方から車がやってきた、私は中間のちょっと
すれ違いが出来そうな場所をたまたま歩いていた
そこへ車が寄ってきて、自分の方は信号が青だった、向こうがバックするべき
ですよね、と同意を求める、私がうなづかずにいると構わず進んでいく
相手の車は自分が赤で入ったのを判っているのだろう止むを得ずバックして
いった、およそ5分掛って両方の車が後からきた車と一緒にやっと通過して
いった
私は巻き添えになるのが怖くて黙っていたのではない、あまりの馬鹿さ加減に
あきれてものが言えなかったのである
私の立っている場所でまず自分がよけて相手の車を通してやれば5分どころか
1分もかからず両方が無事通過できたのである
相手の車は赤信号で入ってきた、悪いのは相手だ、そこまでは正しい
しかし最善策は相手に罰を与えて誤らせることではない
自分がスムーズに通過する事であるのは明白だ
正しい事を主張するのも時と場合によりけりだと社会人なら学習するべきである
なにより自分の立場でしか考えられないのが間違っている
自分はそれで納得かも知れない
しかし、その事によって社会的な弱者、法的な弱者がどのような思いをするか
その事には一切触れない、触れればややこしい、子供に理解できない話になる
から・・・、でもそれを教えないと上の例の様な馬鹿野郎が蔓延する事になる
そんな教育を受けて来た子供がそのまま大人になったのが今の社会か?
そういえば昔は前科者という言葉があった、前科何犯のだれそれがまた強盗に
入ったというようなニュースが結構流れていたような気がする
一度ミスしても次がある、2度ミスしても嫌われても一応生きられる、また生き
ようとする、そこには罪人にかける情があり、また罪人も根性があった
今はほとんどない、一度犯罪を犯した者は社会から抹殺され、二度と犯罪さえ
できないような立場に置かれるという事か、理由は判らないが、まともな人さえ
仕事が無い時代である、前科者が社会で暮らす余地などないのかもしれない
裏を返せば失敗の許されないギスギスした住みにくい社会ということになる
目立った事をすれば、小さなミスを針小棒大に取り上げ引きずり落とそうと虎視
眈眈と狙っている、それとばかりに騒ぐと日頃ストレスのたまった輩がこの時と
ばかりに便乗して糾弾する
結果として活気のない、進歩の無い、つつき合いに終始する、つまらない社会に
自分たちがしているが、その事に気づく余裕さえない、気づいても下手な事を
言って目立つとまずい、そんな世の中に思えてならない
私はこの状態を、長屋の井戸端会議社会と勝手に名付けている
表の社会で頑張って動きまわれば自分一人では後始末のできないような事を
しでかさざるを得ないのである、つまり責任なんか取りようがないのである
止めて済むなら止めればいい、しかしそれでは責任を取った事にはならない
第一マスコミや遺族の要求する被害者の気分が晴れるような責任の取り方なんて
有るわけがない、何度も言うが時間は元には戻らない、感情は収まらない
ましてや、やり込めてストレスを発散しようとしている相手の解消になるような事は
出来ようはずがない
はっきりと割り切って、出来る行動を取る、法律は行動する事で責任を取ろうと
する人を擁護すべきである、それがおきてしまった事も含む全体最適であると
考える
今までの反省は必要だが、もっと必要なのはこれからだと思う
警察のキャッチフレーズに犯罪の無い明るい社会というのがあったが、まさか
このギスギスした進歩の無い、暗い気持ちで過ごしている社会の事なのだろうか
昔は良かったと思うのは私が年を取ったせいかな

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