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理論の原点
私はコンピュータプログラマを10年位やっていた
若い時に仕事を一生懸命やると、その仕事特有の
性格になってしまうものらしい
テレビの刑事物で刑事の奥さん役の人が「何でも
疑うのはあなたの悪い癖よ」とやっているが、あんな
感じである
プログラムを作るのは、細かい指示を順番に組み合
わせて、大きな目的を実現する指示書を作るような
仕事である
家を作るのに設計図を書くが、まず全体図、それから
間取りごととか、土台とか、水回りとか、部分図に
分解し、最終的に材木一本まで部分図を分解していく
が、作業は似ているかもしれない
穴の位置が1mmでも狂うとぴったりはまらないように
プログラムも文字が一文字でも間違うと正しく計算さ
れない
こんな仕事をずっとやっていると、生活でも習慣的に
論理的に組みたてたり分解して理解するのが当たり
前になり、これが一般の人には異常に感じられるよう
である
「お前と話をしていると息が詰まる」と言われた事があ
る、自分の話す内容は全て順序立てられており、かつ
論理的に矛盾が無い事を常に説明として付加えて
話すからである
注意されて悪い事は直したいのだが、どう直したら
いいのかが判らない
根拠のない話なんて怖くて話せない、都市伝説という
らしいが、もっともらしい話しがネットで拡散するのを
そう呼ぶらしい、時には根拠らしい事がくっついてい
るので、さも本当の様に思えるのだという
私の様な人間は多分コロッと引っかかるのだろう
なぜならば、話を論理的に展開する場合でも、一番根
っこの部分は案外感覚的である事が多い
例えば自由とか権利は憲法に基本的人権として書か
れているが、自由って何なのと付き詰められると案外
いい加減な感覚的な言葉である事が判る
Aさんの自由はBさんにとって自由とは限らない、むし
ろAさんが自由に振舞うと、Bさんは自由を奪われ、
AさんとBさんで喧嘩が始まる
どちらの自由も憲法で保障されているのだが、付き詰
めると自由と言うのは不自由の裏返しであることが直
ぐに判る
従ってその後に自由を基本的考え方として、平和だとか
繁栄だとか美辞麗句をいくら並べても、それが理論的で
あればあるほど、土台がいい加減なので矛盾だらけに
なるのである
プログラムや数学は、土台の部分を徹底的に考察し、
絶対に正しい事だけから積みあげる姿勢が徹底してい
るが、人間の考え方や人生について語ろうとする時、
どこまでやれるのだろう
デカルトの方法序説でこれを実践し、我思う故に我有り
という言葉に行きついたのは誰でも知っている
しかし、そこから積みあげて政治や世の中の問題等を
現実的に対処したり役割を実行するのはこれまた非現
実的でナンセンスである事も容易に理解できる
現実はもっと泥臭く、間違っていても良いから、稚拙でも
速やかに実行する事が求められる
もっと単純でなおかつ後々後悔しなくてすむ「原点」はな
いのだろうか
私たち政治家ではない一般人が普段の出来ごとに対処
するのに、考え方や理論を展開するための原点とするべ
き事とはなんだろうか
私は自由や権利ではないと思う
私が思ったのは、
・卑怯なことはしない
・弱い者を助ける(人と動物を区別しない)
・大勢が助かるなら自分が犠牲になっても良い
・・・・・
といったようなことだった
こういった感覚的な事はこれ以上理屈や理論では細分化
できない、良い事は良い事だとしか言えない事に気が付い
た、昔はこれを道徳教育として教えていたと思うが今はど
うなんだろう
どんなことでも根拠を持つべきだと言うのが、プログラマと
しての私のいわばプライドなのだが、この感情的ないわば
武士道精神とでもいえばいいのか
この感情だけはなぜそうなのかがうまく理屈で説明できない
これを原点とする限り、私は胸をはって生きていける
他の人へも指図がましい事が言える
そう思うのである
もちろん、嘘をついたことはあるし、卑怯な事をしたことは
多々あるが、まあ、出来るだけそうありたいといったレベル
である、だから反省や後悔をしながら毎日を過ごす事になる
でもこれはいいなと思う
世の中一般の人がニュース等を見て、いろんな意見を言う
が、私のこの原点からの理論展開からは全く別の結論に至
る事が時々ある
そんな時、世の中一般のいわゆる通説は間違っていると声を
大にして言えるのである
それがこの原点の良い所である
あなたは自分の考え方の「原点」を問われた時、何と答え
るのだろうか
裸の自分を見つめた事はあるか
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