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各種事実から導いた邪馬台国前後の歴史

・BC500年頃の勢力図
 日本は縄文人がほとんどを占めていた
 朝鮮半島南部と九州北部には中国南方から舟で漂着した民族が
 住んでおり、北方から南下してきた朝鮮系の民族とは違う文化を
 持っていた、後に弥生人となるがまだそこまでは至っていない
BC500

・BC200年頃の徐福渡来図
 秦の始皇帝の命を受け、徐福がやってきた
 話が史記に書かれた通りとすれば、日本にとっても非常に多くの人数で
 あり、伝説の通り日本各所に移り住んだとしても不思議ではない
 むしろ当時の食糧事情を考えれば、分散して住み着いたと考える方が
 自然である
 代表的な地域を書いたが、他にも徐福伝説の残る地域はある
 いずれも日本の表側(中国から見て裏側)に伝説が多く残るのは、中国
 から逃れたとする説を裏づける
 弥生時代の文化的幕開けを徐福がになったと唱える学者は多い
 縄文時代の米と弥生時代の米は種類が違うという
 徐福がとは言わないが、当時の越地方から逃れて来た難民が今の米を
 もたらした時期がこの頃と重なる
BC200
 卑弥呼とは直接の関係は無いと思われるが、徐福の子孫が神武天皇とすると
 地域や年代が符合しやすいと考える、皇室に関する事は軽々しく推測するべき
 でないという空気が流れそうなので慎むが、日向の民がなぜ近畿まで遠征しな
 ければならないのか、神武天皇を助けたヤタ烏や土蜘蛛とは何者なのか
 その理由を説明しやすい
 畿内に起こった国は私の説では大和でなく明日香とした
 縄文人は徐福の子孫と朝鮮から移り住んだ民族により、大きく3つの勢力
 に分散された、九州の熊襲と出雲、北方の蝦夷である
AD0

・AD100
 奴国が漢に使者を送り、金印をもらった時代
 九州北部では小国が乱立していた
 韓国南部には弁韓が起き倭人が住んでいた
 蝦夷と出雲の間に第一次明日香王朝が成立していた
 またこのころ関東に日立つ国や日の中心と名乗る国が起きた
 関東の国は明日香王朝とつながりがあり、次第に勢力を伸ばした
AD100

・AD300年頃の勢力図
 九州北部の小国はやがて環国連合となる
 その中心にあったのが邪馬台国(=山門国)である
 北方から騎馬民族が南下し、韓国南部の倭人が圧迫を受ける
 騎馬民族はやがて海を渡り、若狭湾の高天原に降臨し、琵琶湖を
 通って畿内に入り出雲王国と第一次明日香王国を滅ぼす、第二次明日香国となる
 渡来系と一部韓国南部も含む倭人系、古くから住む縄文系が争っ
 たが第2次明日香国は強く、短期間で大きく勢力を拡大した
 これには関東の日の国(日本)も加算したため蝦夷は大きく後退した
AD300

・AD500年頃の勢力図
 明日香国はやがて南は九州から北は東海までを勢力範囲とし
 環連合から名前を引き継ぎ、大環国と名乗り、その中心地の
 明日香国も大和国として古来から中国より認められていた国で
 あるとの体裁を整える
 大環国成立のため、当時の日本全土を回り、あるいは戦い、あ
 るいは和睦に尽力した人々の物語を日本武尊という人物の英雄
 談話としてまとめたと言われている
 その後藤原鎌足の時代になり連合の一部である日本国を全体
 の地名とした
 ヤマトタケルを大和や山門でなく日本という文字を使うのはこのころ
 大環国が日本と改名した事を暗示する
 相変わらず熊襲と蝦夷は存在したが、熊襲はやがて滅亡する
 熊襲の勢力が衰えたため琉球では琉球王国が成立した
 AD500


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