私が将棋を覚えた頃は、木村名人が引退し、大山名人の時代に
なった頃だったと思う
大山名人と言えば振り飛車である、特に四間飛車は有名である
木見一門の兄弟子には大野八段と升田九段がおり、皆振り飛車
を得意とし、特に大山名人の兄弟子に当たる大野源一八段の
攻める振り飛車は有名であり、振り飛車一辺倒だった事が理由で
弟弟子も振り飛車が得意となり、この3人を中心に当時の将棋界
では振り飛車党が猛威を振るっていた
アマチュアはプロの指し手をあこがれたため、居飛車党は少数派
だった
しかし、大山名人が相振り飛車を避ける傾向が有ったため、アマ
チュア間でも振り飛車居飛車対抗形が圧倒的だったと思う
従って否応なく居飛車も指す事になる振り飛車党も多かった
それまでの将棋戦法の進化は家元制だった事もあり遅かったが
自由と民主主義の旗の下、将棋の進化も加速したように思う
明治になり関根名人の英断が大きいと思われる
江戸時代から明治の時代は「五筋の位は天王山」とか、「堂々」
「気品」といった事が重視され、プロらしい手といった言い方がさ
れた
序盤の指し手はほとんど定跡として研究され、中盤に差し掛かっ
てからが実力の発揮場所といった将棋がほとんどであった
序盤で定跡を外れた将棋は「手将棋」と言われた
数ある戦法の中で王道と言われたのは矢倉であり、相居飛車の
戦法が主流になる時期もあったが、戦法の変遷で大きな思想的
変化があったのは振り飛車戦法ではなかったかと思う
現代のプロ将棋を見ると、一手目から金が上がったり、五筋の歩
をついたり、まるで将棋を知らない素人の様な指し手が表れる事
がある、なぜこうなってしまったのか
江戸時代や明治時代は判らないが、戦後の振り飛車ブーム以降
について、どのような流行戦法の変化があったかを自分なりに
書いてみた
振り飛車戦法の流行
大山名人を中心とする振り飛車党に対し、当初(昭和30年〜40年)
は急戦居飛車が対抗策として主流だった
中でも加藤一二三元名人の加藤定跡は、四間飛車に対し、詰みま
で示すという徹底ぶりで始めて加藤定跡を見た私は大きな衝撃を
受けた(加藤一二三著 振り飛車破り)
しかし、実戦では振り飛車党を凌駕するには至らず、大山名人の
敵役になってしまっていた
一時期、急戦でなく持久戦も多用された、玉頭盛り上がり戦法である
急戦では居飛車側も飛車、角、銀、桂と攻撃陣は万全だが、振り飛
車側が同じだけの守備隊で待ち受けている所へ攻撃し、うまく捌か
れると、振り飛車側守備陣形の美濃囲いが居飛車側の舟囲いに比
べ強いため苦戦していた
そこで、攻撃陣はそのままに、守備陣で玉頭戦に持ち込むという発想
である
変ったところでは、灘八段の、玉の守備隊が敵の攻撃陣に殴りこむ
という戦法もあった
しかし、いずれの戦法もめぼしい戦果はあげられなかった
玉頭戦の場合は矢倉対銀冠の戦いになり、振り飛車側の方が桂馬
の参加がある分有利なのである
居飛車穴熊の登場
居飛車側の発想の革命を起こしたのは、森下九段だったと思う
居飛車側が美濃囲いをするというのはそれまでも対戦例が有ったが
振り飛車より強固に囲い、捌きあいに出れば居飛車有利という思想
にまで高めたのは森下九段ではないかと思う
彼は他にも森下システムという矢倉の戦法にも思想的な革命を起こ
している
森下九段が採用したのはちょんまげ美濃という角の頭に王を置き、
金銀は美濃囲いにするという形である
王が三段目にあるため攻撃が届くのが一手遅いと言われ、その分
美濃囲いの振り飛車側より有利であるため、勝率が良かった
しかし、次第に研究され玉頭の薄さをつかれるようになり、勝率が
落ちて行った
この思想を更に改良したのが田中虎彦八段である
囲いをちょんまげ美濃でなく、穴熊にしたのだ
穴熊は王が端にあるため、持久戦になった時、金銀が片寄る分
進展性に乏しいのが欠点だが、要するに振り飛車より固く囲って
一気に捌くのが狙いである
ちょんまげ美濃と同様横からの攻めに対し、玉が遠く、更に上から
の攻めにも遠いというのが田中九段の発想である
振り飛車は自ら先手で攻勢に出るのが苦手な陣形であり穴熊に
囲っている間、有効な攻撃を仕掛けづらいのが幸いし、一時期
居飛車の勝率は大きく向上した
その後、振り飛車側も穴熊にする形が試行されたが主流には
ならなかった、将棋自体が単調で面白くないのである